■元弘元年(1331) |
元弘の変。笠置落城、足助重範捕われる。 |
■元弘2年(1332) | 足助重範、京都六条河原で処刑される。 |
■元弘3年(1333) | 新田義貞、鎌倉を攻めて幕府を倒す。足助一族従軍する。 |
■明徳5年(1394) | 御蔵、謁播神社の棟礼。 |
■応永25年(1418) | 金蔵連、八幡神社の棟礼。 |
■応永27年(1420) | 徳阿弥、足助八幡宮へ大般若経を奉納。 |
■応永30年(1423) | 宮平光勝庵の雲版。 |
■応永34年(1427) | 香積寺ができる。 |
■嘉吉2年(1442) | 大多賀、八幡神社の鰐口。 |
■竜正5年(1464) | 御蔵、用泉寺雲版。 |
■文正元年(1466) | 足助八幡宮本殿を再建す。 |
■応仁元年(1467) | 応仁の乱はじまる。 |
■文明16年(1484) | 岩崎(足助)、大島に浄土真宗の道場あり。 |
■文明19年(1487) | 金蔵連、八幡神社の鰐口。 |
以下、足助城関連
■大永5年(1525) |
岡崎の松平清康(家康の祖父)、2,000余騎にて足助へ攻め寄せる。以後城主鈴木氏、松平の麾下に属す。 |
■天文4年(1535) | 〔松平清康没・守山くずれ(12月)〕 |
■天文23年(1554) | 今川家の家臣、馬場幸家来攻、鈴木氏は今川方に降る。 |
■永禄7年(1564) | 松平元康(家康)、3,000余騎をもって来攻、松平の麾下に属する。 |
■元亀2年(1571) | 甲州武田信玄25,000の兵を率いて三河に乱入。足助城は武田方、下条伊豆守信氏を城代とする。 |
■元亀4年(1573)(天正元年) | 〔武田信玄没(4月)〕家康の長男、岡崎三郎信康、足助城を攻める。武田勢を追い払い、旧主鈴木氏に守らせる。 |
■天正3年(1575) | 武田勝頼、15,000の兵を率いて三河乱入。〔長篠の合戦(5月)〕 |
■天正18年(1590) | 城主鈴木氏、家康の関東入国に従う。足助城廃城となる。 |
足助城再建の沿革
足助に城を復元したいという考えは、相当古い時代からあり、その当時は、真弓山にではなく、飯盛山にと考えられていた。30年ほど前には、当時名古屋工業大学の城戸久教授に依頼して、飯盛山の山頂に建てる足助城の絵図面を作成したこともある。この計画は、いろいろな事情によって実現されなかった。
今回の足助城復元の直接の契機となったのは、平成元年に愛知県が構想を打ち出した、「愛知のふるさと事業」である。この計画は、県内各市町村の2億円以上のふるさとづくり事業に対して、愛知県が1億円の補助をするというもので、平成2年度から開始されている。
足助町では、平成2年が町制施行100年に当たり、新しいまちづくりのために、平成元年度から町民との懇談会やアンケート調査を実施した。その中で足助城の再建を望む意見が多く出されたので、愛知のふるさと事業を活用し、城跡公園足助城を2年計画で整備することが決定された。
平成2年 | 足助城再建専門委員会と同時に、足助城跡発掘調査会を発足させ、平成2年6月から発掘調査を開始した。 |
---|---|
平成3年 | 第一期工事・本丸に高櫓と長屋の2棟、南物見台、矢倉、本丸と南物見台を結ぶ橋が建設された。 |
平成4年 | 第二期工事・西物見台に矢倉と塀、南の丸に厨2棟が建設された。 |
平成5年 | 足助城完成 |